2014年07月06日

高齢だから一種の更年期障害?


この吉良一門は足利氏一門で、鎌倉時代初期の足利義兼(よしかね)の三男義氏(よしうじ)が守護なり、

その子長氏(ながうじ)が吉良荘地頭職として、吉良氏と称して勢力を拡大し、

室町時代には、将軍に次ぐ名門を誇った。戦国末期、 一時衰退したが、

14代義定(よしさだ)が関ヶ原の戦いで戦功を認められ、

吉良上野介義央の祖父の代に高家に列し、4,200石を領有した。

17代義央は1641年に江戸で生まれ、 18歳で上杉定勝の娘、富子結婚した。

義央の長男は後の米沢藩主となった上杉綱憲(つなのり)である。

50歳の時、華蔵寺に御影堂を作り、自身の木像を安置した。

61歳の時、江戸城内で浅野長矩(ながのり)に傷つけられ、

自らは隠居し、家督を子の義周(よしちか)に譲った。

これが赤穂浪士の話なんだね。 1年9カ月後に赤穂事件が起こり名門吉良も18台で断絶した。

なお義央を地元で「よしひさ」と呼ぶのは明治に入ってです。

年齢的には、吉良事件のときには、もうお爺ちゃんじゃん。

当時では長生きだからいまでいう更年期障害で、浅野長矩に言いがかりをつけたんじゃない?
  


Posted by じゃんだらりん  at 14:18Comments(0)歴史散策

2014年07月04日

実はいい人 吉良上野介


赤穂浪士のヒール役って言えば「吉良上野介」だけど、本当はすごくいい人なんだよ。

吉良の領地三河国横須賀では、「善政を行った」って言われている、「吉良様」とまで言われてるんだよ。

「領民から慕われた殿様だった」とも、

地元出身の作家尾崎士郎は「吉良のの殿様良いお方、赤いお馬の見回りも、浪士に討たれてそれからは、仕様がないではないかいな」って言われてるぐらいだよ。

富好(とみよし)新田っていう地名があるけど、これは妻の富子の眼病全快の報恩のために、吉良様が開拓した新田なんだ。

広田川や須美川の洪水から領民を守るために、私財を投じて黄金堤(こがねつつみ)を築造して、護岸警備も入れたりしたんだ。

さらに吉良様は領土へ来るたびに赤馬に乗って領内を巡行し、領民と接することを日課としていた。

領民のために製塩業を起こし、塩田の開発を行うなど、

今に遺跡や伝承として「名君吉良上野介」の名前を残しているんだ。

当然この塩は、八丁味噌にも使われているからその先祖は徳川家にも影響を及ぼしてるんだ。
  


Posted by じゃんだらりん  at 14:15Comments(0)三河散策

2013年07月02日

味噌の街「岡崎」

味噌の文化を代表する岡崎の味が八丁味噌だよね。

この八丁味噌の老舗は「早川商店」と「太田商店」の二つあるんだ。

もともと八丁味噌は蒸した丸大豆を味噌玉にしてそれを豆麹にしてし塩水で仕込み、

それを3年もかけて天然醸造させてつくられるんだ。

矢作大豆と呼ばれる良質の大豆が産出され、

花崗(かこう)岩質の地盤からは良質の天然水、さらに矢作川の水運によって

吉良地方の塩が入手しやすかったことが味噌作りを発展させたんだ。

戦国時代には対応されていたんだよ。

保存が利き携帯に便利なことから 兵糧として三河武士に愛用されたことは有名だよね、

徳川家康の江戸開府とともに全国に販路を拡大し、

多くの人にその名を知られた。

味噌蔵に並ぶ300のぐり石を円錐状に積んで数百の仕込み桶は、手作りの伝統を今に伝え圧巻。

この八丁味噌をベースにした。味噌カツソースや、田楽なんて、三河の味って感じだね。
  


Posted by じゃんだらりん  at 18:44Comments(0)三河の味

2013年06月23日

こんにちは

僕は、学校の授業は全然おもしろくなかったので勉強しなかったのだけれども

歴史に関しては、メッチャ興味が有るんだよね。

だから、よく歴史番組なんかはしょっちゅう観ていました。

特に愛知県は、地元っていう関係で深いこともあり、

今回は、東三河一帯とか・・についての歴史を観光では、

あんまりいかないところも含めて、日記に少しずつ書いていこうと思います。

ここって何に造形が深いっていうのがちょっと分かると、又その場所に

行った時、ちょっとたのしくなるでしょ?  


Posted by じゃんだらりん  at 21:07Comments(1)はじめまして